2021/11/30
故大平昌彦先生を偲ぶページ
故大平昌彦先生を偲ぶページ
衛生学教室、先々先代の故大平昌彦先生は、クリスチャンであられ、寛容の精神でもって個性的な大学院生が大勢集まった岡山大学医学部医学研究科衛生学教室を大きく包まれ、数多くの人材を世に送り出す下地を作られました。 故大平昌彦先生を慕っておられるOBは非常に数多く、その先生方のご要望にお応えして、岡山大学大学院医歯薬学総合研究科疫学衛生学教室のホームページに故大平昌彦先生のページを作成することになりました。故大平昌彦先生に関する思い出話などをお寄せいただければ掲載させていただきたいと存じます(okayama.eisei@gmail.comまでメールでお寄せいただければ、本ページに掲載させていただきます)。 |
まず、大平先生が教授になられて10年目の「あらくさ第1号」において、先生が記された文章と先生のご退官までの略歴を掲載させていただきます。昭和33年、九州大学医学部より岡山大学医学部衛生学教室に赴任されました。その前後のご様子を、次のように記しておられます。労働衛生など衛生学を志す多くの若い医学研究者が集ってきた、当時の衛生学教室の様子を垣間見ることができます。
感ずるまゝ―謝辞に代えて― より抜粋
ふりかえって見れば、大学卒業と同時に海軍に従軍し、軍艦ぼけ、戦争ぼけ、熱帯ぼけの三ぼけで空っぽになった頭をかかえて帰って来た私が、大学で研究生活を送ること自体が無理ではないかと思った時代もあった。時代も悪く、激しい物価の変動にスライドしない大学院特別研究生の奨学金を命の綱にしながらも、金はなくともヤミ米も買わねばならず、リュックサックを背に出かけた買い出し先の田舎の海岸の白砂に立って、将来への不安で、やる瀬ない気持ちで眺めた玄界灘が、心の中とはおよそ縁遠い鮮明な青さに輝いていたことが今も脳裏に焼きついている。
その私が、とも角、落伍もしないでこの道を歩んで来ることができたのみか、名門岡山大学の、この教室に迎えられて、緒方益雄先生の後任として、その輝かしい伝統を継承することになったということは、今にして思えば奇縁という他はない。
しかも、緒方先生から受け継いで、残された何人かのお弟子さんの研究のしめくくりをすれば、後は閑古鳥が鳴くのではあるまいかと思っていたのに相違して、どういう風の吹き廻しか、優秀な、元気のよい若手が続々と教室に舞い込んで、今や私には荷の勝ち過ぎる、これらの逸材のお世話に手が廻りかねるという悲鳴を挙げる始末である。回顧趣味を好まない私も、これには全く感無量といわざるを得ない。
もっとも、私には私なりの抱負もあった。労働衛生に志して飛び込んだ衛生学ではあったが、その基本的な領域の研究と、現場における活動との距離を強く感じた私には、「衛生学」という学問の抱える大きな矛盾への挑戦として衛生学の休系化への要求が次第に強くなっていった。
たとえ実験室の中の、どんな基礎的な研究であろうと、あるいは逆に現場、第一線の実践的な活動であろうと、何れも、それが「衛生学」的であるためには、働く者の健康のためという、はっきりした目標がある筈であり、その目標に貫かれた休系的な考え方が確立されなければ、この学問の存在価値はないであろう。それは、ピッツバーグ大学で、雑用を離れて、専心公衆衛生学を勉強できた一年間に、さらに強い私の願望となり、岡山大学で教育の直接責任者という立場に立たされた時に、一そう切実なものとなった。その頃の流行語「ヌーベル・バーグ」が、私の気持ちにぴったりだ、などと、いささか気障っぽいことを口にした記憶は、今にして思えば面はゆいが、その頃はそれなりに真剣に気負い込んでいたものである。そういう時に、次々と若い研究者が教室に参加して来たことは、私にとっては、幸運の一語につきる。(以下、略)
故大平昌彦先生ご略歴(ご退官まで)
1914年 7月1日 | 福岡市に生まれる |
1935年 3月 | 福岡高等学校理科卒業 |
1939年 3月 | 九州帝国大学学士試験合格 |
〃 4月 | 医籍登録第90681号 |
〃 5月 | 九州帝国大学医学部副手 同附属病院医員(第三内科) |
〃 7月 | 海軍々医として従軍 横須賀海軍病院、海軍々医学校、聯合艦隊第四潜水戦隊、海南島陸戦隊、稚内通信隊、潜水学校、ラバウル潜水艦基地隊員に勤務 |
1946年 5月 | 復員 |
〃 10月 | 九州大学大学院特別研究生 |
1948年 9月 | 同上満了、文部教官助手(九州大学医学部) |
1950年 5月 | 九州大学医学部助教授 |
1952年10月 | 医学博士 |
1954年 6月 | アメリカ合衆国留学 |
〃 年 9月 | ピッツバーグ大学公衆衛生学部入学 |
1955年 6月 | 同上マスター課程修了 Master of Public Health(MPH) |
1957年 6月 | 岡山大学教授(医学部衛生学講座) |
1961年 2月 | 医師試験審査委員(国家試験) |
1966年 4月 | 第36回日本衛生学会総会(岡山)会長 |
1966年 6月 | 欧州各国に出張 International Health Congress(The Haag), International Congress on Occupational Health(Vienna)出席 |
1972年 2月 | 学術審議会専門委員、科学研究費(第一段)審査委員 |
1973年10月 | 労働大臣功績賞(労働省)受賞 |
1974年 7月 | アメリカ合衆国出張 International Congress on Radiation Research(Seatle)出席 New Mexico州ウラン鉱山他ウラン製錬関係施設視察 Univ.Texas(Houston)公衆衛生学部で講演 |
1975年 2月 | 学術審議会専門委員、科学研究費(第二段)審査委員 |
1975年 4月 | 第49回日本産業衛生学会 第20回日本産業医協議会(岡山)開催企画運営委員代表 |
1975年 9月 | 連合王国出張 InternationalCongress on Occupational Health(Brighton)出席後、Royal College of General Practitioners(London)に滞在、英国のNHS制度G.P.の実情を視察 |
1976年 9月 | 科学技術会議専門委員(内閣) |
1977年10月 | ポルトガルおよび連合王国出張 Encontro International Para Medicina do Trabalho(Lisboa)出席後ポルトガル各地、連合王国を視察、両国の保健医療制度を調査 |
1980年 4月 | 定年退官(岡山大学名誉教授就任) |