疫学・衛生学150年史

2020/3/18

疫学・衛生学150年史

疫学・衛生学分野
旧衛生学講座[大正11(1922)年度-平成12(2000)年度],衛生学・予防医学分野[平成13(2001)年度-平成19(2007)年度],現名称[平成20(2008)年度-]
明治21(1888)年,第三高等中学校医学部の開校に伴い,初めて衛生学が本学の正規講義科目となった。大正9(1920)年には衛生学教室が竣工し,大正11(1922)年岡山医科大学に昇格したのを期に衛生学教室が新設された。
初代 緒方益雄教授(大正14年-昭和32年)
大正14年6月,細菌学講座と分離した衛生学講座に初めての主任教授として緒方益雄が就任し,名実共に衛生学教室が発足した。昭和18年第15回日本衛生学会を本学において開催。
緒方益雄教授時代の重要な研究業績は,血清学,免疫学の分野と環境衛生の分野とに大別できる。従来より広く利用されていたUhlenhuth氏法による沈降素測定値が抗体価を示すものではないことを究明した。抗体の特異性,臓器特異性に関しても数々の新しい知見を報告し,電気泳動法による血清各成分の抗体産生を証明するなど,過敏症の発生機転より抗原抗体の結合を阻止する方策を研究し,飢餓時には過敏症反応が減弱するという事実も解明した。とりわけ日本脳炎委員会の中核となって,本県および近県に流行した日本脳炎ウイルスの 新株分離に成功したことは特筆すべきである。
昭和29年本学に公衆衛生学教室が新設され,当教室の助教授であった大田原一祥が教授に就任。
第2代 大平昌彦教授(昭和32年-昭和55年)
昭和32(1957)年6月,九州大学医学部公衆衛生学講座より大平昌彦が教授に就任した。大平教授は,放射線障害とその化学的防禦に関する研究態勢を整え,組織培養法,あるいは動物実験によって,数々の新しい知見を見出した。これら放射線障害のメカニズムに対する実験的な研究に加え,生体現象としての運動負荷と放射線障害との関連についても多数報告し,更に疫学的な研究へと発展させた。三朝地域を中心とするhigh back ground における死産,悪性新生物等の発生頻度とその要因の疫学研究は,文部省からの研究助成に加え,米国NIHからも研究援助も受けて進められた。昭和42年以降のスモンの多発に対応した疫学調査,その他数多くの原因不明疾患の疫学調査にも関与し,全身性エリテマトーデス,悪性リウマチ,その他の研究班に参加し,疫学的研究の分野を拡大した。中でも「森永砒素ミルク中毒事件」については,その後の追跡調査による正確な「後遺症」を解明するため,広島大学と合同調査を行なった。その成果は被害の実態を明らかにした研究として高く評価されている。
昭和51年,第49回日本産業衛生学会総会を岡山において主催。特に職業性頚肩腕障害についてはILOのEncyclopedia on Occupational Health and Safetyに初めてOccupational Cervicobrachial Disorderの名称で取り上げられた。
大平教授は「どんな基礎的な研究であろうと,現場,第一線の実践的な活動であろうと,何れも,それが“衛生学”的であるためには,働く者の健康のためという,はっきりした目標がある筈であり,その目標に貫かれた休系的な考え方が確立されなければ,この学問の存在価値はない」との理念を掲げ多数の人財を育成。この理念は,後任の青山英康教授に受け継がれ“社会正義の学問体系”として発展し,今日の疫学・衛生学の基本哲学となっている。
第3代 青山英康教授(昭和55年-平成12年)
昭和55(1980)年4月,青山英康が助教授から教授に就任した。青山教授はJohns Hopkins 大に留学しMPH(Master of Public Health)の学位を取得。
新しい社会医学分野の「医療倫理学」,「医療経済学」,「プライマリ・ケア」,「地域医療」,「在宅ケア」を日本に根付かせた。
教授就任後,毎年多数の入局者があり,全国の衛生学・公衆衛生学関連講座の中で最大の講座となった。新設医大等の卒業生が教室の卒後臨床研修を希望し多数入局して来た。門下生から医学部教授が11名,厚労省の局長が4名,国会議員が2名,医学部以外の学部・学科の教授・助教授・講師等の教職員は数十名,厚労省以外の国内外や地方行政機関の行政官が常時数十名活躍するなど,この様な状況は全国で例を見ない。厚労省の医系技官の数は岡山大学出身者が多く,その殆どが衛生学の同門であった。
学会関係では,第67回日本産業衛生学会,第68回日本衛生学会を岡山で開催し,WONCA (World Organization of Family Doctors)や国際疫学会などの国内外で開催された国際学会の組織委員を務めた。更に,日本学術会議-地域医学及び医学教育の会員を1期3年間務めた。
国際交流の分野では6力国27名の留学生を受け入れ,帰国後は各自の母国で重要な役割を果たしている。この間に発表した著書67編(英文10編,和文57編),学術論文242編(英文36編,和文206編),報告書46編である。青山名誉教授は,「森永砒素ミルク中毒事件」の疫学調査・対応策の提言など、社会正義とその質を担保する学問体系を構築した。教え子及びその教え子は今も全世界で多数活躍中。
第4代 川上憲人教授(平成12年-17年)
平成12(2000)年7月,川上教授が着任。平成13(2001)年4月には部局化により教室を医歯学総合研究科衛生学・予防医学分野と改称。多くの大学院生が入学し,平成17(2005)年時点の大学院生数は26名。在任中には多様な疫学研究を実施し,特に大規模コホートによる職業性ストレスの健康影響,ストレス対策の介入研究が進展した。またWHO・ハーバード大学との共同研究である世界精神保健日本調査を,岡山市を含めた全国11市町村の住民を対象として実施した。これらの研究成果はJAMAを含む35編の英文原著論文として公表。平成17(2005)年8月,国際産業保健学会(ICOH)職場の組織と心理社会的要因科学委員会(WOPS)の第2回国際会議を川上教授が大会長として岡山市で開催。平成17(2005)年,東京大学医学系研究科精神保健学分野に異動。
第5代 土居弘幸教授(平成19年-31年)
土居教授は,厚生技官として保健医療行政,また世界保健機関(WHO本部)Medical Officerとしてポリオ根絶等に従事。平成19(2007)年4月,静岡県理事から着任した。青山名誉教授が重視したEvidence Based Medicine(EBM)の基盤科学である“疫学”を教室の看板として掲げ,優秀なスタッフ・院生が多数の論文をトップジャーナルに発表。国内では群を抜く実績をあげている。特に疫学理論,環境保健分野では,文字通り世界をリードする人財が育っている。ナショナルData Baseによる小児大規模コホート研究で英文20編以上の論文を発表,周産期・小児大規模コホートの構築を推進した。
平成25(2013)年,現有スタッフを中心に公衆衛生学コース(Master of Public Health Course)を開設し,疫学・臨床研究により得られた科学的根拠に基づく保健医療福祉政策の提言,その社会実装を図る人財の育成に傾注。青山名誉教授が発展させた,社会正義を貫く教室運営は,今後とも引き継がれ,中央省庁等への人財供給の中核として発展が期待される。在任中48名が大学院に在籍。

2021/11/30

青山英康名誉教授と衛生学教室の歩み

教室と同門会

名誉教授 青山 英康



1959年に岡山大学医学部を卒業し、1年間のインターンシップを大学病院で行い、医師免許を取得した。その後大学院で衛生学を専攻し、医学博士号を取得して卒業した。その間に国立公衆衛生院での1年間の研修を修了した。大学院卒業後は助手に採用され、1968~1969にはRockefeller Fundのサポートを得て The Johns Hopkins School of Hygiene and Public Healthに留学しMPH(Master of Public Health)の学位を取得して卒業して帰国し、1970年に助教授,1980年に教授に就任、2000年に定年退官して名誉教授に就任した。その後、わが国で最初に看護教育を4年制の大学教育で実施した高知女子大学の学長に2003~2007就任し、任期を終えて退職した。

1960年に入局した時には助教授と講師と2名の助手とで医局は構成されていた。研究生や同門会は講座とのつき合いに消極的であり、関係は薄かった。当時の「衛生学」の講義時間は最も少なく70時間程度であり、そのためか研究室の面積も最も狭かった。その後同級生の3名に引き続いて毎年入局者があり、教授に就任した1980年代頃には時代とともに新設される新しい社会医学分野の「医療倫理学」や「医療経済学」、「プライマリケア」、「地域医療」、「在宅ケア」などの課題を担当して講義時間を増やし、医学部全体の中で最多の時間数150時間を担当し、学部4回生の1学期から5回生の2学期までの授業時間を担当し、6回生2学期末の卒業試験で「衛生学」を受験する医学生が多かった。衛生学の評価は6回生の3学期始めに行った筆記試験に始まって論文提出や面接などの「得点方式」によって最低の60点以上で合格とするが希望によって授業中の態度や実習の内容も考慮して加点をした。最初の筆記試験で合格する学生は3分の1程度であり、試験を重ねて卒業までに高得点を狙う学生が多かった。

教室(医局)の業務としては日常的に医学生・研究生と接触して教育・研究を行うことにあった。1980年代後半には全国の衛生学・公衆衛生学関連講座の中で最大の講座となった。入局者が多かった要因となる入局の動機づけは卒前学部教育においては「自由選択の課題の学外実習のレポート」の提出を求めていたが、その中で「末期患者の在宅ケアに取り組む実地医家の往診に随行しレポートに纏める課題」を選択した医学生が毎年2~3名入局した。これは指導を担当して戴いた市内の実地医家の先生方の御協力の賜物である。卒後臨床研修においては2年間のスーパー・ローテーション(1年10カ月間の各科診療科での臨床研修と2カ月間の実地医家・保健所での研修)を希望する大学院生に市内の病院の協力を得て行い、此れを専攻した院生が毎年2~3名入局して来たので、これらの研修プログラムが有効であったと考えられる。さらに、全国の医大の卒業生が我が教室の卒後臨床研修を希望して数多く入局して来た。札幌医大、山形医大、秋田医大、神戸医大、島根医大、佐賀医大、九州大学からも大学院生の入学があった。

同門会については学位の授受との関係がある。医学博士の取得には大学院委員会という学位を授与し審査する事の出来る教授会のメンバーが学位取得を申請する大学院生や研究生の論文を指導して委員会に紹介する事になって居り、この委員会で三人の審査に当たる教授が選ばれて審査し、大学委員会に審査結果が報告されて合否が決められる。教授には大学委員会の審査に合格出来るように論文を指導する責任を持たされている。学位取得の資格は大学院に入学するか2年間以上の研究生にならなければならなかった。当時は、止むをえず山口大学や私立大学に依頼していたこともあった。時代の要請に早くから対応していたことになる。

1970年に助教授、1980年に教授に就任して医局の運営に20年間直接関与して来たが、門下生から医学部教授が11人、厚労省の局長が4名、国会議員が2名、医学部以外の学部・学科の教授・助教授・講師等の教職員は数十名、厚労省以外の国内外や地方行政機関の行政官が常時数十名活躍している。厚労省の医系技官の数は岡山大学出身者が他の大学と比較して多かったが、慶応大学や東京大学、新潟大学等の出身者も多かった。ただし、岡山大学出身者は同窓であると同時に同門であったが、他の大学出身者は同窓であっても同門であることは少なく、特に衛生・公衆衛生学関連の講座との関係は少なかった。

学会活動については衛生学・公衆衛生学・プライマリケア・家庭医学などの関連分野の学会の理事・学会誌編集委員 等を教室員が担当し、国際学会のWONCA(World Organization of Family doctors)やICOH(International commission of Occupational Health)等の役職も数多くの教室員が担当している。全国学会や国際学会の企画・運営・開催にも数多く関与し、学会誌編集委員はじめ各種の国レベルの委員会委員も数多く担当してきた。

上記のように我々の講座には他の講座にない数多くの特長を持っているので、この際に紹介して置きたいと考えた。後任教授として、岡山の津山市出身で東京大学の公衆衛生学講座の大学院出身でもありテキサス大学留学中を含めて産業保健の分野でのメンタルヘルスの研究に従事していた川上憲人先生等の極めて優秀な研究者4名が応募してくれて選考が行われた。後任教授となった川上教授はその後東京大学の母校のメンタルヘルスの教授に乞われて転職し、助教授も現在は北里大学医学部・公衆衛生学教授に転勤している。

青山 英康 名誉教授の御略歴

昭和10年2月12日 大連市生まれ

(主な学・職歴)
1959(昭和34年) 岡山大学医学部卒
1963(昭和38年) 国立公衆衛生院正規医学科修了(D.P.H.)
1964(昭和39年) 岡山大学大学院医学研究科卒(医学博士)
1969(昭和44年) THE JOHNS HOPKINS UNIVERSITY 卒(M.P.H.)
1970(昭和45年) 岡山大学医学部助教授
1980(昭和55年) 岡山大学医学部教授
1987(昭和62年) 中国・鞍鋼労働衛生研究所・科学技術顧問就任
1991(平成 3 年) 衛生学・公衆衛生学教育協議会代表世話人(1997年まで)
1993(平成 5 年)
 Outstanding International Graduate Award in Public Health Leadership 受賞
1994(平成 6 年)
 Lifetime Membership in the Johns Hopkins Society of Scholars
1994(平成 6 年) 日本学術会議会員(第16期)
1999(平成11年) 第12回日韓中産業保健学術集談会・会長
2000(平成12年) 岡山大学医学部教授を定年退官、岡山大学名誉教授
2000(平成12年) 労働大臣労働衛生功労賞
2000(平成12年) 中央労働災害防止協会名誉会員
2001(平成13年) 韓国・大韓医者協会より「公衆衛生医養成への支援」に感謝状
2002(平成14年) The Dean’s alumni advisory council meetingのmemberに
2003(平成15年) 高知女子大学・高知短期大学・学長
2003(平成15年) 日本産業衛生学会功労賞受賞
2004(平成16年) 日本学校保健学会功労賞受賞
2005(平成17年) 日本学校保健学会名誉会員
2006(平成18年) 日本民族衛生学会名誉会員
2006(平成18年) 日本公衆衛生学会名誉会員
2006(平成18年) Asia Pacific Family Medicineの発刊への支援に対する感謝状
2007(平成19年) 任期満了により高知女子大学・高知短期大学の両学長を退職
2008(平成20年) 日本衛生学会名誉会員
2008(平成20年) 日本産業衛生学会名誉会員
2010(平成22年)
 Distinguished Alumnus Award 2010(The Johns Hopkins University)受賞
2011 (平成23年) 高知県立大学名誉教授
2015 (平成27年)
 Emeritus member of ICOH ( International commission on Occupational Health)

(主な国内学会役員)
日本衛生学会:名誉会員、学会長(第68回―1998)、幹事、理事、評議員、学会誌編集委員、学術用語委員会委員、50年史編集委員
日本産業衛生学会:名誉会員、学会長(第67回―1994)、理事、評議員、学会誌編集委員、中国地方会会長、労働衛生関連法検討委員会委員、産業医部会幹事、専門医認定制度委員長
日本公衆衛生学会:名誉会員、理事、評議員、国際交流委員会委員長
日本プライマリ・ケア学会:副会長、理事、評議員、国際交流委員会委員長、認定医制度実行委員会委員長、国際家庭医学会評議員(日本プライマリ・ケア医学会代表)
日本学校保健学会:名誉会員 学会長(第32回―1985)、理事、幹事、評議員
日本民族衛生学会:名誉会員、幹事、評議員
日本人類動態学会:監事、学会長(第21回―1986)
日本大気汚染学会:理事、評議員

(主な社会的役職)
日本学術会議:地域医学研究連絡委員会委員長、医学教育研究連絡委員会委員長
健康保険組合連合会:コンサルタント(職場健康管理)、体力づくり優秀組織(総理大臣賞)選考委員会委員
骨粗鬆症財団:理事
中央労働災害防止協会:名誉会員
NPO 健康開発科学研究会:副会長・理事
NPO 保健科学総合研究会:会長
労働省:労働基準法施行規則第35条定期検討のための専門委員会委員、産業生態科学研究所検討委員会委員、作業関連疾患等に関する研究企画評価委員会委員、快適職場のあり方に関する懇談会委員長、長時間労働従事者の健康管理対策の確定委員会委員長
文部省:学術審議会専門委員(1990~1991,1994~1995)
厚生省:公衆衛生審議会老人保健部会委員会委員長、医療関係者審議会医師部会委員長、外国人医師・歯科医師臨床修練審査委員会委員長、地域保健基本問題研究会委員、医師需給の見直し等に関する検討委員会委員、老人保健福祉審議会専門委員、高齢者保健事業の在り方に関する専門委員会委員長
社会保険庁:政府管掌健康保険保健福祉施設事業中期構想検討会委員
財団法人日本公衆衛生協会:理事、市町村保健センター支援事業推進委員会委員
財団法人社会経済生産性本部:21世紀の健康を考える特別委員会委員
日本体育・学校健康センター:スポーツ振興基金審査委員会第2部会委員
岡山県:地域保健懇談会委員、震災対策専門家会議委員
岡山市:保健所問題懇談会委員、公衆衛生協議会会長、健康市民おかやま21推進会議委員長、建築審議会会長、公害審議会委員、優秀建築物審査委員会委員、地域保健問題懇談会委員、国民健康保険財政安定化対策委員会委員長、岡山市中心街活性化基本計画策定懇談会委員
兵庫県:新しい地域保健体制検討委員会アドバイザー会議議長、ひょうご健康づくり県民行動指標策定委員会委員長
神戸市:神戸市復興計画審議会委員

(主な編・著・監修・監訳書)
頚肩腕障害―職場におけるその対策―(労働基準調査会、1980)
セルフ・ヘルス・チェックのすすめ(健康・体力つくり事業財団 1980 )
体力テスト百科(ぎょうせい、1981)
職場の体力づくり(労働基準調査会、1981)
ホーム・スポーツ・シリーズ  全12巻(ぎょうせい、1981)
高齢社会への対応(ヤクルト本社、1982)
健康・体力づくりマニュアル(ブックハウスHD、1983)
特集 プライマリ・ケアー、からだの科学(日本評論社、1983)
新版職業性腰痛―予防から治療・職場復帰までー(労働基準調査会、1984)
地域医療(中央法規出版KK、1984)
新版産業保健(篠原出版、1985)
すぐれた保健活動を求めて Ⅰ・Ⅱ(健康保険組合連合会、1986)
受験生の必勝健康法(山陽新聞社、1986)
保健施設事業実施マニュアル(健康保険組合連合会、1987)
産業疲労ハンドブック(労働基準調査会、1988)
中高年齢者のセルフ・ヘルス・チェック指導の手引(新企画出版社、1988)
職場の健康づくり(中小企業労働福祉協会、1989)
これからの健康診断(社会保険法規研究会、1990)
健康体力評価・基準値事典(ぎょうせい、1991)
公衆栄養活動の実際(第一出版、1992)
医科学大事典(講談社、1993)
老人保健法による健康教育ガイドライン(日本公衆衛生協会、1993)
Principles and Practice of Primary Care and Family Medicine
 (Radcliffe Medical Press,1994)
Neurobehavioral Methods and Effects in Occupational and Environmental Health
 (Academic Press,1994)
Health Promotion and Education “Bringing Health to Life”
 (Hoken-Dohjinsha INC.,1996)
今日の疫学(医学書院、1996) 改訂版(2006)
大震災における救急災害医療(へるす出版、1996)
プライマリ・ケアを目指す医師研修ガイドブック(日本プライマリ・ケア学会、1997)
International Symposium on Suggestions for Primary Care Physicians in Japan
 (日本PC学会、1997)
PPKのすすめ(紀伊国屋書店、1998)
健康づくりハンドブック(法研 How to 健康管理編集部、1999)
21世紀に向けた健康観革命(財団法人 社会経済生産性本部、2000)
精神保健学=精神保健福祉士養成講座(中央法規、2003)
プライマリ・ケア医の一日(南山堂、2004)
治療・特集「日常病にどう対応しますか?」(南山堂、2004)
新温泉医学(日本温泉気候物理医学会、2004)
日本学校保健学会50年史(日本学校保健学会、2004)
すこやかに老いる健康を身につけるために(研文館吉田書店、2012)
産業安全保健ハンドブック(労働科学研究所、2013)
ヘルスアセスメントの時代へ(保健文化社、2013)
高知短期大学60年史(高知県立短期大学 2015)

2021/11/30

故大平昌彦先生を偲ぶページ

故大平昌彦先生を偲ぶページ



大平昌彦先生    

衛生学教室、先々先代の故大平昌彦先生は、クリスチャンであられ、寛容の精神でもって個性的な大学院生が大勢集まった岡山大学医学部医学研究科衛生学教室を大きく包まれ、数多くの人材を世に送り出す下地を作られました。


故大平昌彦先生を慕っておられるOBは非常に数多く、その先生方のご要望にお応えして、岡山大学大学院医歯薬学総合研究科疫学衛生学教室のホームページに故大平昌彦先生のページを作成することになりました。故大平昌彦先生に関する思い出話などをお寄せいただければ掲載させていただきたいと存じます(okayama.eisei@gmail.comまでメールでお寄せいただければ、本ページに掲載させていただきます)。

まず、大平先生が教授になられて10年目の「あらくさ第1号」において、先生が記された文章と先生のご退官までの略歴を掲載させていただきます。昭和33年、九州大学医学部より岡山大学医学部衛生学教室に赴任されました。その前後のご様子を、次のように記しておられます。労働衛生など衛生学を志す多くの若い医学研究者が集ってきた、当時の衛生学教室の様子を垣間見ることができます。

 

感ずるまゝ―謝辞に代えて―   より抜粋


ふりかえって見れば、大学卒業と同時に海軍に従軍し、軍艦ぼけ、戦争ぼけ、熱帯ぼけの三ぼけで空っぽになった頭をかかえて帰って来た私が、大学で研究生活を送ること自体が無理ではないかと思った時代もあった。時代も悪く、激しい物価の変動にスライドしない大学院特別研究生の奨学金を命の綱にしながらも、金はなくともヤミ米も買わねばならず、リュックサックを背に出かけた買い出し先の田舎の海岸の白砂に立って、将来への不安で、やる瀬ない気持ちで眺めた玄界灘が、心の中とはおよそ縁遠い鮮明な青さに輝いていたことが今も脳裏に焼きついている。

その私が、とも角、落伍もしないでこの道を歩んで来ることができたのみか、名門岡山大学の、この教室に迎えられて、緒方益雄先生の後任として、その輝かしい伝統を継承することになったということは、今にして思えば奇縁という他はない。

しかも、緒方先生から受け継いで、残された何人かのお弟子さんの研究のしめくくりをすれば、後は閑古鳥が鳴くのではあるまいかと思っていたのに相違して、どういう風の吹き廻しか、優秀な、元気のよい若手が続々と教室に舞い込んで、今や私には荷の勝ち過ぎる、これらの逸材のお世話に手が廻りかねるという悲鳴を挙げる始末である。回顧趣味を好まない私も、これには全く感無量といわざるを得ない。

もっとも、私には私なりの抱負もあった。労働衛生に志して飛び込んだ衛生学ではあったが、その基本的な領域の研究と、現場における活動との距離を強く感じた私には、「衛生学」という学問の抱える大きな矛盾への挑戦として衛生学の休系化への要求が次第に強くなっていった。

たとえ実験室の中の、どんな基礎的な研究であろうと、あるいは逆に現場、第一線の実践的な活動であろうと、何れも、それが「衛生学」的であるためには、働く者の健康のためという、はっきりした目標がある筈であり、その目標に貫かれた休系的な考え方が確立されなければ、この学問の存在価値はないであろう。それは、ピッツバーグ大学で、雑用を離れて、専心公衆衛生学を勉強できた一年間に、さらに強い私の願望となり、岡山大学で教育の直接責任者という立場に立たされた時に、一そう切実なものとなった。その頃の流行語「ヌーベル・バーグ」が、私の気持ちにぴったりだ、などと、いささか気障っぽいことを口にした記憶は、今にして思えば面はゆいが、その頃はそれなりに真剣に気負い込んでいたものである。そういう時に、次々と若い研究者が教室に参加して来たことは、私にとっては、幸運の一語につきる。(以下、略)

 

故大平昌彦先生ご略歴(ご退官まで)


1914年 7月1日福岡市に生まれる
1935年 3月福岡高等学校理科卒業
1939年 3月九州帝国大学学士試験合格
  〃   4月医籍登録第90681号
  〃   5月九州帝国大学医学部副手
同附属病院医員(第三内科)
  〃   7月海軍々医として従軍
横須賀海軍病院、海軍々医学校、聯合艦隊第四潜水戦隊、海南島陸戦隊、稚内通信隊、潜水学校、ラバウル潜水艦基地隊員に勤務
1946年 5月復員
  〃  10月九州大学大学院特別研究生
1948年 9月同上満了、文部教官助手(九州大学医学部)
1950年 5月九州大学医学部助教授
1952年10月医学博士
1954年 6月アメリカ合衆国留学
  〃  年 9月ピッツバーグ大学公衆衛生学部入学
1955年 6月同上マスター課程修了 Master of Public Health(MPH)
1957年 6月岡山大学教授(医学部衛生学講座)
1961年 2月医師試験審査委員(国家試験)
1966年 4月第36回日本衛生学会総会(岡山)会長
1966年 6月欧州各国に出張
International Health Congress(The Haag), International
Congress on Occupational Health(Vienna)出席
1972年 2月学術審議会専門委員、科学研究費(第一段)審査委員
1973年10月労働大臣功績賞(労働省)受賞
1974年 7月アメリカ合衆国出張
International Congress on Radiation Research(Seatle)出席
New Mexico州ウラン鉱山他ウラン製錬関係施設視察
Univ.Texas(Houston)公衆衛生学部で講演
1975年 2月学術審議会専門委員、科学研究費(第二段)審査委員
1975年 4月第49回日本産業衛生学会
第20回日本産業医協議会(岡山)開催企画運営委員代表
1975年 9月連合王国出張
InternationalCongress on Occupational Health(Brighton)出席後、Royal College of General Practitioners(London)に滞在、英国のNHS制度G.P.の実情を視察
1976年 9月科学技術会議専門委員(内閣)
1977年10月ポルトガルおよび連合王国出張
Encontro International Para Medicina do Trabalho(Lisboa)出席後ポルトガル各地、連合王国を視察、両国の保健医療制度を調査
1980年 4月定年退官(岡山大学名誉教授就任)

 

 

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